2007年11月19日月曜日

大川家具の総桐箪笥

 大川家具の開祖、榎津久米之介が船大工の技術を生かして、天文5年(1536年)指物を始めたのが、「榎津指物」の起こりとされているが、家具が主流になるにはまだ時を要しました。今日の家具である箪笥(たんす)と同様の家具が庶民の間に普及し始めるのは18世紀で、大坂製の箪笥家具が大川家具へ下っていた記録が残っています。
 文化9年(1812年)榎津長町に生まれた田ノ上嘉作は、久留米の細工職人に弟子入りし家具の製作を習得し、大川へ帰郷して家具製作を始めました。帳箪笥・衣装箪笥家具が19世紀中頃から生産されましたが、大川家具独特の形となるのは明治に入ってからと思われます。

大川家具の総桐箪笥の板乾し


 総桐箪笥を制作するには、まず、製材された桐板を板干場で2年ほど雨に打たせてアクを抜き、板の木目と素性を見極めて板選びをします。総桐箪笥職人の頭の中では、既にこの板は桐箪笥の何処にくるか決まっています。

大川家具の総桐箪笥の板焼き


 総桐箪笥の木取りの前に曲がった板に焼きを入れて真直ぐにしていきます。桐の板厚を無駄にしない、貴重な材を大切にする先人の知恵が生きています。

大川家具の総桐箪笥の板矧ぎ(いたはぎ)


 大川家具の総桐箪笥の板矧ぎは、長台でかねくちを合わせて、総桐箪笥の前板には目が詰まった柾目(まさめ)合わせ、総桐箪笥の側板には板目に板目を抱き合わせ美しく見えるように、板を剥いでいきます。

大川家具の総桐箪笥のホゾ組合せ


 大川家具の総桐箪笥のホゾ組合せは、柔らかい桐の場合、鑿は押すのではなく刺身を切るように刻んでいきます。総桐箪笥のは材選びから組立てまでを一人の職人が仕上げ、総桐箪笥の刻みの道具も、それぞれの総桐箪笥職人が自分で手入れした道具を使います。

大川家具の総桐箪笥の本体組立て


 大川家具の総桐箪笥の本体組立ては、大きな総桐箪笥も自分の作業台で一人で組立てていきます。さまざまな接取加工された総桐箪笥の部材が、竹クギや木クギで組立てられていき、総桐箪笥が美しく仕上げるためには手間を惜しみません。

大川家具の総桐箪笥の抽斗組立て


 大川家具の総桐箪笥の抽斗組立ては、柔らかい桐材に適した包蟻組みで抽斗(ひきだし)が組立てられます。総桐箪笥の本体に隙間無く納まるように、一つ一つ鉋で0.01mmの調整をしていきます。

大川家具の総桐箪笥のヤシャブシ


 大川家具の総桐箪笥のヤシャブシは、夜叉倍子(やしゃぶし)の実をコーヒー色になるまで長時間煮た煮汁です。ヤシャブシを塗った総桐箪笥は長年の間に味がでてくるのが特徴です。

大川家具の総桐箪笥の塗り


 大川家具の総桐箪笥の塗りは、総桐箪笥の表面はヤケ防止と美しい仕上げのために、ヤシャブシにとの粉を混ぜた物を刷毛に絞りながら総桐箪笥に数回重ね塗りを行います。カルカヤの根を束ねたうずくりで、総桐箪笥の木目に沿って目立てを行います。

大川家具の総桐箪笥の金具付け


 大川家具の総桐箪笥の金具付けとして、最後に前飾り、丸環、錠等を取りつけます。桐箪笥金具は、民芸金具のような無骨なものではなく、大名道具に付けられていた優美で手が込んだ美術工芸的金具を総桐箪笥に使用します。

2007年11月16日金曜日

大川家具は家具の産地

 大川家具の起源は室町時代の後期にまで遡ります。大川家具の開祖、榎津久米之介が船大工の技術を生かして、天文5年(1536年)指物(さしもの)を始める。これが「榎津指物」の起こりとされているが、家具が主流になるにはまだ時を要する。

大川家具の起源


 室町幕府十二代将軍・足利義晴の家臣、榎津遠江守の弟として生まれた榎津久米之介。大川市榎津本町の願蓮寺に今も残る古文書によると、彼は兄の戦死後、天文4年(1535年)出家。翌、天文5年(1536年)一寺を建立し、「願蓮寺」と名づけた。
 久米之介は、家臣の生活のために、そのころ盛んだった船大工の技術を生かし、指物(家具)を作らせました。これが「榎津指物家具」の起こりとされています。彼は天正10年(1582年)8月10日、96才で死去。その後、家臣は工商をなし、榎津久米之介の精神を受けついでいきました。
中興の祖、田ノ上嘉作 は文化9年(1812年)榎津長町に生まれ、久留米の細工人に弟子入りし箱物家具の製作を修得して帰郷。これが榎津指物家具の始まりと言われている。

大川家具の江戸時代後期


 大川家具の中興の祖 田ノ上嘉作。文化9年(1812年)榎津長町に生まれた田ノ上嘉作は、家大工の傍ら建具家具製作に携わっていました。大阪で指物家具の修行した優秀な細工人が久留米にいると聞き、すぐに弟子入り。箱物(物を入れる箱の家具類)の製作を修得して榎津に戻り、これが榎津箱物家具のはじまりと言われています。その後榎津箱物家具は、息子儀助、さらにその息子小平次に受け継がれ、さらなる発展を遂げます。大川指物家具とは、「大川指物家具」とは釘を使わず、板と棒、棒と棒を使い、木に穴や切りこみを入れ、差し合わせて組み合わせたタンス、箱物、机の家具こと。

大川家具の明治時代


 大川独特のデザイン、機能を持った衣裳箪笥家具が生まれたのは明治10年頃。非常に大型家具で、材質は杉・桐・欅を使い、素木・透漆・黒塗などで仕上げられているのが特徴の家具です。また、箪笥家具の金具には鉄・銅・真鍮などを使い、薄いタガネによる細かな透彫りを施すという手法も大川家具独特のものでした。当時、ひとつの箪笥家具が完成するには、
 1.木挽きによる製材
 2.金具製造
 3.塗装技術
 4.木工職
という4つの高度な家具技術をもった異業種の職人による技術が必要で、その4つの家具技術の粋を集めた作品が「榎津箪笥」だったのです。

大川家具の大川木工家具の発展のきっかけ


 今から約100年ほど前の明治22年(1889)、町村合併によって大川町が誕生し、木工家具関係者が町全体の四分の一を占めるほどになりました。この家具発展の原因には、塗装方法や木工機械の進歩などの技術の発展のほかに、家具材料の木材が確保できたことと、家具製品の販売先が広がったことがあげられます。

明治時代の大川家具の木工業


明治時代になると、最新の技術が導入され、新しい意匠を加えた精巧な家具が生産されるようになり、大川の町も“家具産地の町”として全国にその名を知られるまでになりました。 同業組合立「大川工業講習所」が開設される。

大川家具の大正時代


 大川鉄道が敷設され、販路が拡大される。大正に入り、第1次世界大戦時およびその直後は、大川の家具工業もその例にもれず、好景気の波が押し寄せました。しかし、大正9年にもなると戦後の恐慌が押し寄せ、日が経つごとに不況の度を増していきます。しかし、こんな状況下、大川家具の業者はさらなる努力を重ね、家具品質の向上に努め、不況の打破を試みます。このため、家具業者数、家具従業員数、家具生産高ともに好調な成長を続けました。またこの頃、家具組合では各地で開催される家具博覧会・家具共進会・家具品評会に「大川家具の指物の真価を周知させ、家具販路を拡張する」という目的で、主な家具業者の代表的な家具作品の出品を積極的に進め、大川の家具の宣伝に尽力。その結果、近隣市町村に家具販路が広がるという成果を挙げました。
大正期、大川の家具工業は、増大する需要に応えるべく、木工家具機械の導入が進められます。その背景には、好景気による家具職人不足もあげられます。榎津で家具問屋を営んでいた松本由太郎は、大正8年京都大学工学部武田教授の指導を受け、家具機械化を実践。
大正11年には家具工場を完成させました。導入された家具機械は「鋸・帯鋸・カッター・手押鉋・自動鉋・自動角のみ盤」などで、当時では画期的な家具生産力を発揮するものでした。

大川家具の昭和初期


 日中戦争により、大川家具の生産が中断される。第二次世界大戦の敗戦による物資不足が木工家具関係者に打撃を与える。 木工家具産地として復活し、家具づくりを再開。同年、国より「重要木工集団地」の指定を受ける。また、この年、榎津久米之介の400年忌を期して「第1回大川木工祭(昭和29年から「木工まつり」となる)」が開催される。

大川家具の家具機械化


 昭和20年、第二次世界大戦が終了すると、戦争の影響で家をなくした人々からの家具需要が高まり、大川家具の家具工業は急速な発展を遂げます。昭和24年(1949年)になると、国の「重要木工集団産地」の指定を受けます。 この頃から家具ツキ板工場ができ、木材の乾燥機が導入され、家具機械化が進みます。大川では「カッター・手押しかんな・自動かんな・角のみ」の4種類の機械が多く使用され、「一式」と呼ばれました。これらは、それまでの「のこぎり・かんな・のみ」での作業と比べると、約半分の工程での家具生産を可能にしました。夜明けダム建設の年、筑後川の上流の家具木材を運んだいかだ流しが終了し家具木材は鉄道輸送をへて大型トラックの輸送へと変わる。

大川家具の「第1回全国優良家具展」


「第1回全国優良家具展」への出品により、全国の注目を集める。同年、「西日本物産展」で、河内諒デザインの和ダンスが最高賞を受賞。世に知られる大川家具調の「引き手なしたんす」である。河内諒(工業デザイナー)は、戦後、大川家具の近代化に大きな功績を残した人物。それが家具工業デザイナーの河内諒です。当時、熊本産業試験場長をしていた河内氏は昭和26年より大川に定住し、家具デザイン・塗装など、技術の指導や助言を行い、家具デザインのシンプル化と家具機能性を追求しました。また、当時の家具業界も「創美会」など研究グループを作り、熱心な家具研究改善が続けられ、旧態の箱物家具を打破した近代的センスにあふれた大川家具への脱皮に向けて尽力。その結果生み出されたのが「引き手なしたんす」なのです。「引き手なしたんす」はその都会的なセンス漂うデザインで、大川を代表する家具として爆発的に名声を高める家具になりました。

大川家具の全国への進出


 この時期、大川家具は全国的な進出を遂げました。昭和28年大阪で開催された「筑後物産展」では、改良された大川家具を発表。好評を得て、京阪神地区への家具販売の足掛かりがつくられました。それに続き、河内デザイナーが東京在住の友人の協力を得、「大倉商会」との契約を結ぶと同時に、地元にも「大倉会」を発足、東京との家具取引が始まりました。昭和30年(1955年)には東京で開催された「第1回全国優良家具展」にも出品。モダンなデザインで全国に「家具の町大川」の名を広め、今日の大川家具の基礎を築きました。この大川家具の市場開拓により、家具生産者によるまとまった家具取引グループ化による家具組織づくりが進みました。家具メーカーで組織する「協同組合大川家具工業会」発足。

大川家具の躍進


 昭和30年代後半、家具使用木材の変革と、並行して開発された木工家具機械の技術的進歩から、生産の近代化が進み、家具量産態勢が可能となり、大きな飛躍をとげた。大川地区を中心に1100の家具事業所が年間生産額70億円をあげ、高度成長の波にのり、一大家具産地を形成した。 展示会場を備えた「大川産業会館」が建設される。

大川家具の大川産業会館


 この会館の誕生は新作家具発表、家具販売の大拠点としてその後の大川家具の繁栄に大きく貢献してきました。現在では年4回の家具展示会の他、数多くの家具展示会が開催され、全国より約3000社に及ぶ家具販売商社が来場しています。戦後のベビーブームによる、急激な結婚や新築のラッシュにより日本一の家具産地となる。

2007年11月14日水曜日

徳島家具は家具の産地

 徳島家具で有名な徳島市は、四国三郎の異名を持つ吉野川の河口部に形成されたデルタ地帯に発達した都市です。徳島市は地勢上、東は瀬戸内海・紀伊水道に面し、古くから水運が発達していたことは、15世紀半ばの史料である『兵庫北関入船納帳』(ひょうごきたぜきいりふねのちょう)からも知ることができます。それによると、当時阿波国(現在の徳島県)は、葉藍や塩などの農水産物のほか、材木・檜(ひのき)・榑(くれ-板材)等の林産物が大量に積みだされ、既に木材や木材加工品の産地でした。

徳島家具の背景


 徳島市が、家具産地として発達してきた背景には、こうした林産物が豊富な地域であったことや、江戸時代、城下町として栄えたことが挙げられます。天正13年(1585)、阿波に入国した蜂須賀家政公は、新町川河口部の城山(現在の徳島市城山)に城を築き、藩経営にとって重要な水軍基地(安宅役所/あだけやくしょ)を、福島に置き、そこに約200人の船大工を住まわせ、軍船の造船や修理に当たらせたといわれます。

明治時代の徳島家具


 明治4年、廃藩によって船大工等は職を離れましたが、そのいくらかは、自らが持つ高度な技術を活かして、安宅物といわれる日用家具やタンス・針箱・雨戸や障子等の建具・桐下駄など家具の製作を本業とするようになりました。家具の生産体制が整ったのは、明治中~末期といわれ、鏡台は明治20年代には既に大阪の問屋筋から家具の木地(表面処理をしていない本体部分)等の注文を受けていましたが、明治の末頃には家具の完成品を製造するようになり、鏡台家具産地としての態勢が整いました。阿波タンス家具もこの頃には、家具専業者が10戸に達していました。

 家具の製造は、徳島市の渭東地区が県内、那賀郡中島地区は県外市場向けの注文品を主に扱い、両地区は併行して家具製造に発達してきました。洋家具の製造は戦後間もなく、官庁からの注文や京阪神方面からの引合いが殺到し、家具製造事業が拡大されてきました。阿波仏壇家具の製造も、戦前に徳島市を中心に製造が始まり、戦後コクタン・シタン・タガヤサン等の輸入材を用いて家具製造に発展してきました。

昭和30年代(1955年~)の徳島家具



 高度経済成長時代の幕開けとなり、伝統的だった倹約貯蓄の価値観が崩れ、大衆消費・大量消費の時代に入り、徳島家具産地はこの時代に飛躍的発展をとげます。特に、婚礼家具としての鏡台は、木地・杢張(表面に薄い木目を張る工程)・塗装・仕上げ加工という生産の分業体制で、鏡台家具産地として全国に知られることになりました。

 仏壇家具も同様に出荷額を伸ばし、全国一の家具産地に成長していきます。昭和33年には徳島市が家具産地振興のため、市立工芸指導所を設置しますが、特に、所長にデザイナー兼木工技術者であった下田俊夫氏を登用し、家具のデザイン指導・技術指導を強化したことや、県工業試験場の指導等が家具産地の発展に大きく寄与したといえます。同34年には家具の協同組合の連合会が結成されました。

昭和40年代(1965年~)の徳島家具



 昭和49年・54年の二度にわたるオイルショックによって日本経済は減速し、低成長経済の時代を迎えます。国民の価値基準は多様化し、「遊び」が重要な意味を持つようになります。また、消費市場はモノ余り・モノ離れ現象がみられ、企業は多品種少量の生産体制が課題となりました。徳島家具産地も、経済的要因である住宅着工件数の落ち込みや、社会的要因である婚姻件数の減少によって家具製造に大きな打撃を受け、また、自らは高度成長時代に取り組むべき家具生産設備の近代化に遅れをとり、住工混在による家具生産効率の低下等が大きな課題となりました。


昭和50年代(1975年~)の徳島家具



 徳島家具は、家具市場が成熟化するなかで、量から質へ、モノから心への時代といわれ、消費者のライフスタイルや生活シーンに合わせた高級家具、トータルにデザインされた家具、組合わせによるコーディネーション家具等が求められる時代を迎えました。
 この時期、大手の異業種メーカーが参入する住宅設備に組み込まれる収納家具類は、毎年大幅な伸びを続けてきた反面、一般家具の全国出荷額は、昭和50年以降伸び悩み、川下と呼ばれる「流通販売」力を含めた家具の企業力・商品力による企業間格差の拡大や、家具産地間競争がますます激化してきました。
 徳島市は、地場産業である家具の健全な発展育成を図るため、昭和54年に(財)徳島市地場産業振興協会を設立。同57年には工芸指導所に代わり木工会館を建設して、家具製造の指導・支援体制の強化を図りました。

昭和60年以降(1985年~)の徳島家具



 昭和60年には通産省が、家具等の生活関連産業が、高感度、高品質でトータルシステム的なの家具商品を提供するハイタッチな生活文化型産業に転換し、21世紀に向けての徳島家具が成長産業へと発展することを期待するとし、すべての経営資源の革新(リストラクチャリング)の必要性を示唆されるところとなりました。徳島市もこうした方向を指向し、産地の構造改革の一つとして、昭和63年に、第三セクターによるの徳島家具デザイン企画会社(株)アワードを設立し、つづいて平成2年には、の徳島家具産地内企業のCAD/CAM化等を促進するため、通産省のNMC構想にもとづく(株)ニューメディア徳島を設立しました。

 さらに徳島県において、県工業試験場に代わる工業技術センターを、平成3年に完成、平成5年には徳島市沖洲沖、41.5haを埋立てたの徳島家具産業団地が完成する予定です。
 90年代は豊かさの実感できる社会が指向されていますが、の徳島家具産地はこうした社会の到来に備え、人間の全ての営みの原点となる生活空間を、より快適に、より豊かにするためのハイタッチ・インダストリーとして、また新しい生活文化提案型のの徳島家具産地として変容していくことを推進課題としています。
 また、更に柔軟に対処するために、これまでのの徳島家具組合組織を、の徳島家具販売を主体とする協同組合TFI(トクシマ・ファニチャー・インダストリーズ)と、の徳島家具生産を主体とする協同組合TIP(トクシマ・インテリア・プロダクツ)に再編成し、これをの徳島家具の両輪として、県木竹工業(協)連合会の活動を方向づけるとともに、の徳島家具産地内企業・関係機関・団体が一体となって、さまざまの諸方策に取り組んでいるところです。

2007年11月13日火曜日

府中家具は家具の産地

 広島県府中市は、人口4万6千人程度の小さな町ですが、古くから家具産業が栄え、現在市内には、家具メーカー、家具部品加工業者、家具資材業者など家具製造に係わる業者が250社程度集まり、主要な地場家具産業を形成しています。

 府中家具は主に、洋服タンスや整理タンスなどの収納家具の産地として有名ですが、近年では、府中家具は造り付家具やキッチン、内装ドアなど室内の木製品全般を手掛けるまでに成長した府中家具は「総合インテリア」の 産地を目指しています。府中家具組合では、バイヤー向けの府中新作家具展示会 (府中家具フェスタ) を毎年春・秋の年2回開催しています。府中家具フェスタ会場の府中家具協同会館には約20社の家具メーカーから1,200点余りの新作家具が勢揃いしています。

府中家具の歴史


 府中家具の源となる府中で家具づくりが始まったのは、今から290年ほど前で、当時の古文書によると「宝永年間に内山円三が大坂で箪笥家具の製法を習得し、帰郷後製作に着手したのが始まり…」 と書かれています。

 大正の頃になると府中家具の職人の数も増え、現在の府中の鵜飼町辺りには百数十軒もの箪笥家具職人が軒を連ね、朝早くから夜更けまで、家具作りのノミやカンナを使う音が絶えなかったといいます。

 戦後、府中は他産地に先駆けて府中家具「婚礼家具セット」を開発するとともに、家具コンクールで連続してトップ賞を獲得するなど常に上位入賞を果たし、高級家具の産地としての名声を得るに至り、現在、ブライダル家具(婚礼家具セット)においては、質・量ともに日本一の家具生産量を誇っているのが府中家具です。

府中家具は全国有数の収納家具の産地


 府中家具としては、特に、ブライダル家具セット(婚礼家具セット)が有名ですが、その他にも書斎用家具、食器棚、リビング家具、座いす、ベッド、システムキッチン、特注家具など数多くの家具を製造しています。各家具製造会社は、総じて家具の中・高級品を手掛け、「素材・技術・仕上げ」 全て満足のいくのが府中家具です。

府中家具の素材


 府中家具のポリシーとして、本当に良い家具は良質の銘木から生まれると考えています。府中の家具づくりは、家具材となる原木を厳選することから始まります。素材の持味を最大限に生かし、なお且つ長い歳月をかけて天然乾燥を行うなど反りや狂いが家具にきにくいよう、木材をしっかりと寝かせ、落ち着かせてから家具として加工しています。「良い家具は、良い素材から」 これが府中家具のポリシーです。

府中家具の技術


 府中家具のポリシーとして、家具は一生ものと考えています。すぐガタがくるような安っぽい家具では困ります。府中の家具には、連綿と受け継がれてきた職人達の技が隅々に生きています。例えば、引出しの接合部には蟻組み(ありぐみ)を用いるなど、随所に府中家具の伝統的な技巧を取り入れ、長年の府中家具の使用に耐えられるよう加工しています。「いつまでも使いやすく、愛着をもてる家具であるように」これが府中家具のポリシーです。

府中家具の仕上げ


 府中家具の塗装の特徴は、木目の風合いや深みをかもしだし、「木味」を引き立たせます。それと同時に、傷や変色などを防ぐ役目もあります。府中の各企業は互いに塗装の技を競い合い、高い家具塗装技術が自慢です。また、府中家具の細部に至るまで洗練されたデザインも見逃せません。「そこにあるだけで心地よさを感じ、人と長くつきあえる家具づくり」これが府中家具のポリシーです。

2007年11月12日月曜日

飛騨家具は家具の産地

 飛騨家具は現在では日本でも有数の家具産地となり、その中心地の飛騨・高山ですが、その飛騨家具の歴史は大正9年(1920)、今から81年前の中央木工株式会社(現在の飛騨産業)の誕生が源で、飛騨での本格的な飛騨家具造りの幕開けでした。日本で現存する家具企業としては、実質的に飛騨産業が最古参的存在であり、常に、国内の家具業界はもとより、地域のリーダー家具企業として家具業界を牽引してきた功績は大きいものがあります。

飛騨家具の誕生


 大正時代の飛騨家具の高山町は、南の岐阜へ140キロ、北の富山へ90キロの地点にあって、当時の高山の産物といえば生糸生産が主産業で、騨の山々に群生するブナの原生林も、飛騨家具としての用途がないまま手つかずの状態で、無用の長物とされていました。飛騨家具の始まりは、武田は当時57歳。大野屋の主人として味噌・醤油の醸造業を手広く営み、高山町の有力実業家の一人でもありました。武田は曲木家具に強い関心を持ち、木材に精通した知人の廣島粂蔵に意見を求めました。廣島は針葉樹を使って蒸し器や篩(ふるい)など曲げ輪っぱづくりの大手製造業者で、森前の話にひどく興味を抱き、武田と二人で曲木家具について技術問題・設備・関西での売れ行き・値段など、こと細かく熱心に尋ねました。

飛騨家具の苦労


 飛騨で木工家具を生産する場合、繁茂しほうだいに放置されている広大なブナの原生林が、飛騨家具の資材として手軽に利用できることが大きな利点で、更に飛騨の匠の伝統を受け継いだ職人が高山には数多くいるなど、工場立地条件に恵まれているから、武田は木工家具の生産は地元飛騨家具の産業発展に大きく寄与できると決意、木工飛騨家具家具会社創業を計画し、大正9年「中央木工株式会社」が誕生しました。

 当時の家具店は、和家具を中心に箪笥や長持ち、鏡台などを扱う家具屋がほとんどで、中には雑貨店で家具を扱う店もあったほどで、洋家具を扱う店はごく僅かであった。ところが、名古屋から東は浜松の東洋木工という曲木家具メーカーがいち早く販売契約を結んで、新規の飛騨家具業者が入り込む余地を与えず、今度は販売面で家具業界の厳しさを痛感させられました。

 やむを得ず飛騨家具の販路を西に求め、大垣・彦根・京都・大阪へと、関西方面に足を伸ばしましたが、こちらも奈良の奈良曲木、布施の泉曲木、大阪の日本曲木など有力な家具メーカーが商品を卸し、よそ者の入る隙を与えませんでした。しかも家具の品質がよく、価格も格安なのに驚かされ、家具業界競争の厳しさを身をもって体験しました。

飛騨家具の輸出


 飛騨家具は、昭和7年には独立した満州などへの輸出に力を注ぎ、高山線が開通した9年には満州・朝鮮をはじめ、海外に飛騨家具の販路を求めて大きな成果を上げました。また、昭和10年にアメリカのバイヤーとの飛騨家具の商談が成立し、日本初の飛騨家具の対米輸出が開始され、12年には飛騨家具輸出が本格的に始まりました。

飛騨家具は家具の産地

 飛騨家具は現在では日本でも有数の家具産地となり、その中心地の飛騨・高山ですが、その飛騨家具の歴史は大正9年(1920)、今から81年前の中央木工株式会社(現在の飛騨産業)の誕生が源で、飛騨での本格的な飛騨家具造りの幕開けでした。日本で現存する家具企業としては、実質的に飛騨産業が最古参的存在であり、常に、国内の家具業界はもとより、地域のリーダー家具企業として家具業界を牽引してきた功績は大きいものがあります。

飛騨家具の誕生


 大正時代の飛騨家具の高山町は、南の岐阜へ140キロ、北の富山へ90キロの地点にあって、当時の高山の産物といえば生糸生産が主産業で、騨の山々に群生するブナの原生林も、飛騨家具としての用途がないまま手つかずの状態で、無用の長物とされていました。飛騨家具の始まりは、武田は当時57歳。大野屋の主人として味噌・醤油の醸造業を手広く営み、高山町の有力実業家の一人でもありました。武田は曲木家具に強い関心を持ち、木材に精通した知人の廣島粂蔵に意見を求めました。廣島は針葉樹を使って蒸し器や篩(ふるい)など曲げ輪っぱづくりの大手製造業者で、森前の話にひどく興味を抱き、武田と二人で曲木家具について技術問題・設備・関西での売れ行き・値段など、こと細かく熱心に尋ねました。

飛騨家具の苦労


 飛騨で木工家具を生産する場合、繁茂しほうだいに放置されている広大なブナの原生林が、飛騨家具の資材として手軽に利用できることが大きな利点で、更に飛騨の匠の伝統を受け継いだ職人が高山には数多くいるなど、工場立地条件に恵まれているから、武田は木工家具の生産は地元飛騨家具の産業発展に大きく寄与できると決意、木工飛騨家具家具会社創業を計画し、大正9年「中央木工株式会社」が誕生しました。

 当時の家具店は、和家具を中心に箪笥や長持ち、鏡台などを扱う家具屋がほとんどで、中には雑貨店で家具を扱う店もあったほどで、洋家具を扱う店はごく僅かであった。ところが、名古屋から東は浜松の東洋木工という曲木家具メーカーがいち早く販売契約を結んで、新規の飛騨家具業者が入り込む余地を与えず、今度は販売面で家具業界の厳しさを痛感させられました。

 やむを得ず飛騨家具の販路を西に求め、大垣・彦根・京都・大阪へと、関西方面に足を伸ばしましたが、こちらも奈良の奈良曲木、布施の泉曲木、大阪の日本曲木など有力な家具メーカーが商品を卸し、よそ者の入る隙を与えませんでした。しかも家具の品質がよく、価格も格安なのに驚かされ、家具業界競争の厳しさを身をもって体験しました。

飛騨家具の輸出


 飛騨家具は、昭和7年には独立した満州などへの輸出に力を注ぎ、高山線が開通した9年には満州・朝鮮をはじめ、海外に飛騨家具の販路を求めて大きな成果を上げました。また、昭和10年にアメリカのバイヤーとの飛騨家具の商談が成立し、日本初の飛騨家具の対米輸出が開始され、12年には飛騨家具輸出が本格的に始まりました。

2007年11月11日日曜日

静岡家具は家具の産地

 静岡家具の始まりは、江戸時代にまで遡ります。徳川三代将軍家光公が浅間神社を造営した時、全国各地から集められた漆工や大工、指物師、彫刻師などの職人たちの多くが造営後も駿府に定住しました。静岡家具の現地の気候が漆芸に適していたため、漆器づくりが盛んになり、その漆器づくりで培われた伝統技術、技巧が家具の一つである鏡台づくりに活用されることとなりました。

明治の静岡家具


 明治時代になると、静岡家具は、漆塗りの西洋鏡台が静岡市内の業者によって初めて家具として作られ、家具の鏡台産地としての基礎がつくられました。一方、洋家具は、建具業界から発達し、明治中期以降の近代化による洋風建築の増加などに伴って、椅子、机等の家具の需要増や公共施設などからの注文家具(コントラクト家具)の生産を背景に洋家具産地としての基礎を築きました。東京で家具鏡台製作技術を収得した者が静岡に戻り、桑色付(くわいろつき)鏡台家具の創業をなし、新規品で実用的な各種鏡台家具を製作し好評を得ました。この頃から、針箱を横広にしたような箱の上に猫足と鏡を取りつけた、いわゆる西洋鏡台家具が一般家庭の家具として普及するようになりました。

大正の静岡家具


 大正時代になると、静岡家具は、茶ダンスなどの大型の置家具も鏡台から分化して作られるようになリ、木製家具産地の様相を濃くしていきました。このころ静岡家具の産地の独自の家具生産システムである社会的分業体制が誕生しました。これは、家具の生産・販売・を結ぶ扇の要の役割を持つ製造業問屋を中心に、家具の下職である木地屋、漆師屋、蒔絵師などと共に更に関連業者によって構成されています。大正末期になると、静岡家具では、漆に代ってラッカーによる洋塗装が普及したことから、一層低廉な価格での家具の生産が可能となり、関東大震災後の家具復興需要も契機となって、大衆向け家具の出荷額を大いに伸ばすこととなりました。

昭和の静岡家具


 昭和初期になると、静岡家具は、丸鋸プレナー、帯鋸などの家具工場機械設備の発達によって、漸次、家具工場での生産の形態がとられるようになりました。静岡家具は、静岡市庁舎、県庁舎などの家具をはじめ、東京帝国ホテルの家具の注文を受け、他産地進出の気運をつかみました。戦後は、静岡家具は、進駐軍用家具類の割当発注をきっかけに、一大発展期をつみ、洋家具が急速に台頭し、またサイドボードという新製品家具がヒット家具となり、戦前の和家具産地のイメージが大きく変わりました。このころ、静岡で第1回の家具見本市が開催されました。

 その後、静岡家具では、藤枝家具団地(38年)、大井川家具団地(41年)などが建設され、家具製造問屋の中にも一貫メーカー化をはかるものが現れるようになり、家具製品の種類も豊富になり、総合家具産地の色彩が濃くなっていきました。昭和56年から静岡家具では、家具産地の振興に取り組み、さらには、島田市を中心に新たな組み立て家具産地が形成されるなど、豊富な家具の品揃えを誇る全国有数の総合家具産地へと発展しました。昭和62年には、離合集散を繰り返してきた家具業界も静岡県家具工業組合に統合し、一本化されて現在に至っています。

現在の静岡家具


 現在、静岡家具は、家具一貫生産メーカーと合理的な分業生産システムをもつ家具製造卸で構成されています。また、家具の大量生産から家具の多品種少量生産への脱却を図るとともに、長年培われた家具製造技術を元に新たな発想とチャレンジ精神で、多様化する消費者ニーズに対応した物造りをし、個性派家具企業が増えてきており、いくつもの違った顔をもった家具産地として発展しています。

2007年11月10日土曜日

旭川家具は家具の産地

 旭川が最初に家具と向き合ったのは、今から110年余り前になります。1890(明治23)年にできた木挽場が、旭川が木を暮らしに生かそうとした第一歩でした。旭川で本格的なまちづくりが始まり、それに伴って全国から家具建具職人が移住し、旭川で家や家具をつくるようになっていきました。

 旭川の深く豊かな森林に囲まれ、世界に名を馳せるほどの良質材を資源として持ち合わせていた旭川は、それに加えて存在したもう一つの財産、つまり夢と志を持った家具職人によって、家具のまちとして伸びていきます。

 1949(昭和24)年には旭川家具事業協同組合が設立され、以来現在まで50余年のたゆまぬものづくりによって成熟し、「旭川家具」は全国そして海外に知られるブランドになりました。

旭川家具とデザイン


 全国有数の家具の産地の一つに数えられる旭川家具。旭川家具の産地としての一番の特長は「旭川家具のデザイン性の追求」にあります。旭川家具は良質な素材と高度な技術に、美しいデザインとすぐれた機能が加わってこそ、使う人の役に立ち、長く愛用できる家具になりえると考えるからです。

 1990(平成2)年に始まった家具のトリエンナーレ「国際家具デザインフェア旭川(IFDA)」では、世界レベルのデザインコンペティションを実施しました。家具の試作や家具の製品化を手掛けることで旭川のメーカーは技術と感覚を磨き、また一方では家具界に若手家具デザイナーを送り出す一助を担ってきました。

 2006(平成18)年には世界最大級の国際家具見本市、ドイツ「ケルン・メッセ」に出展し、家具の高度な木工技術とデザイン、そして日本独自の精神性で評価を得ています。ドイツ「ケルン・メッセ」の旭川家具ブースには、ここだけで4911人の来場がありました。

旭川家具の技術


 旭川家具は半世紀に渡って培ってきた家具木工技術を連綿と受け継ぎ、つねにより質の高い家具製品を求めてその技術を磨いてきました。しかし、それは、いわゆる手づくり至上主義ではありません。手と同じレベルの仕事をより速く正確に行う機械技術は、むしろ積極的に取り入れています。家具職人の感性と手技がなければできない工程はそれを生かし、先進機械が得意とする部分は機械にまかせる、そうした人間と機械の協力体制が、高品質な旭川家具を適正な価格で安定的に届けることを可能にしています。

2007年11月9日金曜日

日本の家具の製造場所

 日本の家具の多くは木で製造されているため、国内の代表的な家具産地のほとんどは木材の産地と重なっています。

◆旭川家具(北海道旭川市)


 北海道開拓を目的として、明治時代末期に本州から多くの大工や家具職人が旭川周辺に移住したのが始まりです。北海道の豊富な森林資源を家具製造の背景としており、戦後、木材の機械乾燥が普及して材料の品質が安定したのを契機として、日本を代表する家具産地へと発展しました。アメリカ・ヨーロッパを始めとする諸外国でも旭川家具は高い評価を受けており、デザイン性を重視した大型の洋風家具の製造が主流となっています。

◆静岡家具(静岡県)


 静岡市、島田市、焼津市、藤枝市、岡部町、大井川町を中心に、静岡県内には多くの家具製造会社があります。これは、かつて徳川家光が静岡浅間神社の大造営を行った際に、各地から移住してきた家具職人が基礎となっています。家具としては、漆塗りの技法を生かした鏡台や、茶箪笥の産地として古くから知られていて、高級家具の桐の和箪笥の産地でもあり、現在は唐木仏壇の家具の産地としても知られています。

◆飛騨家具(岐阜県高山市)


 飛騨地方の豊富に存在するブナ材の有効活用を目指して、大正時代に地元の有志が出資して家具会社である「中央木工株式会社」を設立したのが始まりです。飛騨家具は、曲げわっぱの技法を用いた曲げ木加工で椅子を製造したのが初まりで、飛騨家具独特の技法を生かした椅子やテーブル、机などの脚を持った家具を得意としている。

◆府中家具(広島県府中市)


 府中家具の始まりは、1710年前後に、内山円三という人物が大阪で箪笥の製造技術を習得し、郷里に戻って家具の生産をしたのが最初といわれている。戦後、婚礼家具セットと銘打って、家具のセット販売を日本で初めて行うなど、家具の販売面での工夫も知られ、現在も、箪笥を初めとした収納家具を得意としています。

◆徳島家具(徳島県徳島市)


 徳島家具の始まりは、明治時代の初期に、阿波藩の船大工だった職人達が家具製造を開始したことによります。明治中期に徳島家具の鏡台が関西地区で好評になり、阿波鏡台の名で全国的に知られるようになり、現在は高級唐木仏壇の家具の産地としても知られています。

◆大川家具(福岡県大川市)


 大川家具の始まりは、筑後川周辺に居住していた船大工が製造していた箱物の家具が元祖といわれており、家具製造は室町時代まで遡る事ができるといわれるほどの長い歴史を持っています。現在の大川家具の基礎を作ったのは、江戸時代後期に長崎で修行をして、細工技法を持ち帰った田ノ上嘉作であるといわれています。現在は量産家具の製造会社が多く、ありとあらゆる家具を製造し、家具生産高では日本一を誇ります。

2007年11月8日木曜日

空間創造家具

 空間創造家具とは、家の中で一定目的の空間を床面から切り離して、床より高い位置に主な機能を確保することを目的とした家具のことです。

 日本では、屋内に入るときに履物を脱ぎ、家の外と中を分離する文化が根付いていますが、室内で履物を脱がない欧米などの諸外国では、室内といっても、部屋の床面は地面の延長線上にあると考えられています。このため、床面に直接座ることは地面に座ることと同じことになるので、床面から一定の高さを持った空間を作り出すために空間創造家具が使用されています。

 また、何らかの作業を行う場合にも、作業空間は床面から一定の高さにあったほうが作業効率が良いので、一定の高さに作業空間を作り出す必要も出てきます。このために、空間創造家具が制作されており、空間創造家具のほとんどは、長い脚の上に一定の広さを持った水平面を有するのが特徴です。

空間創造家具の種類


椅子類の家具 - 椅子、ソファー、座椅子
 人が座る空間を作り出すための家具

机類の家具 - 机、テーブル、座卓、箱膳(一人膳)、電話台など各種の用途に用いる台
 執筆作業や食事などの使用空間を確保して、各種作業が効率よく行える高さを作り出すための家具

寝具の家具 - ベッド
 人が寝る空間を確保するための家具

 これらの家具は水平方向の空間を創造するために使用される家具ですが、衝立など垂直方向に空間を仕切り、視覚的・心理的にある空間を隠したり、装飾に使用する家具もあります。

衝立、間仕切り(パーティション)、屏風

2007年11月7日水曜日

家具とは

 家具とは、家財道具のうち家の中に置いて利用する比較的大型の道具類や元々家に作り付けられている比較的大型の道具類のことをいいます。建築基準法上は、作り付け家具は、建築確認及び完了検査の対象となりますが、後から置かれるものについては対象外となります。

 日本の家具は木で作られたものが大部分を占めてますが、近年では、加工のしやすさからデザイナーが制作した優れた金属製の家具も増えてきています。日本では古来から衣装収納用家具の材質としては、湿気を吸収しやすく燃えにくいが最高級とされ、価格は高いものの、何度も削り直して新品同様に修理リサイクルできるため、孫の代になっても長期間使用することができる家具です。

 1995年の阪神・淡路大震災では、倒れた家具の下敷きになった人が多かったことから、壁や床に金具で固定したり、家具と天井の間で棒をつっぱらせたりして家具を固定することが地震対策として広まりました。

 また、日本では、古来から結婚に際して新婦が嫁入り道具を持参する伝統があり、最近は薄れつつあるものの、その最も代表的なものが家具である。

収納家具


 家財道具や服飾品、食品などを整理して収納するための家具で、形は箱型で収納を基本の目的としているが、中には収納物を展示・陳列して部屋の装飾品としての機能をもたせた家具もあります。

箪笥(タンス)類 - 衣装箪笥(和箪笥、洋服箪笥)、茶箪笥
 衣類や小物を保管するのに用いる家具で、引き出しや開き戸を持ち収納物を埃や害虫などから防ぐ工夫がされています。

棚類 - 本棚、戸棚、食器棚、下駄箱
 水平な板(棚板)を適度な間隔で上下方向に複数枚張ることで荷物を置く事ができる面積を拡大し、少ない設置面積で多量の荷物を収納できるように工夫した家具

日本の伝統的な家具
葛籠(つづら)、行李(こうり)、階段箪笥、船箪笥